■ オランダとコーヒーの関わり

 数々のヨーロッパの国々が、コーヒーハウスを拠点に、様々なコーヒー文化を花開かせてきましたが、そんな国々と明らかに違う観点で、オランダはコーヒーの歴史に大きな影響を与えいます。その注目すべき観点とは、コーヒーの栽培において世界的な貢献を行なってきたということです。
 当時のアラブ商人にとってコーヒーは金の卵同然で、その栽培が他国へ流出することを防ぐために、コーヒーの苗木の持ち出しに目を光らせ、国外へ持ち出すコーヒーの果実を熱湯に浸したり、乾燥させたりして発芽出来ないように細心の注意を払っていました。

 それまで、ドイツ、イタリア、オランダの植物学者や旅行者が次々とレバント地方(現在のシリア・レバノン一帯)から新しい植物及び飲み物の情報を持ち帰っていました。多くのヨーロッパ各国が、それらの知識を「コーヒーを飲む」という文化・習慣の獲得、啓蒙へと動いた中で、ひとり知識を実利へと変える方向へ向かった国がオランダでした。
 1602年にオランダ東インド会社が設立され、1614年にはオランダ商人がイエメンを訪れ、コーヒーの栽培と貿易の可能性を打診してます。そのたった2年後の1616年には、ピーター・ファン・デン・ブルックが、モカからコーヒーの木をオランダに持ち込むことに成功してます。
 しかし、コーヒーはコーヒーベルトといって赤道を挟んで南北25度の間が栽培に適しており、気候条件は年間平均気温が約20度で、しかも1年を通じて大きな気温の変化が無いこと。雨量も1500~1600ミリで、1年を通してほぼ平均していること等の条件が揃わない等の理由で栽培できませんでした。
 そこで、オランダ人はコーヒーをただ輸入して自国で飲むだけではなく、近隣のヨーロッパ各国へも輸出して、ヨーロッパでのコーヒー貿易を一手に引き受けようと考えました。
 ヨーロッパに初めてコーヒーが伝わったのが、イタリアのベネチアに1615年ですから、いかにオランダ人が進取の気性に富んでいたかがうかがえます。また、フランスにコーヒーが伝わる1644年の4年も前の1640年には、ウルフバインという商人が初めて商業ベースでモカからアムステルダムへコーヒーを輸入し売り出しています。そして1663年には、モカとアムステルダム間の貿易は定期化されるようになるのです。現に、ロンドンに最初のコーヒーハウスを出したパスカ・ロゼは、1664年コーヒー豆を売り出すときに、コーヒーをオランダの飲み物と称して広めていることも明らかになっていますから、オランダがいかに商人として活躍していたかが想像できます。

 コーヒー豆の輸入を軌道に乗せたオランダは、それだけではあきたらず、次のステップである植民地でのコーヒー栽培へと大きく踏み出して行きます。このコーヒーの持ち出しに成功したのが、ババ・ブータンというイスラム教徒のインド人でした。彼は聖地メッカへ巡礼にやってきた時、コーヒーをインドへと持ち帰りました。いわば盗み去ったのです。その後、南インドのマイソール海岸で栽培に成功。この木が原木となり、南インド一体はコーヒーの生産地として今に至っています。
 インドに運ばれたコーヒーの木を植民地へ移植するため、1696年にアムステルダム市長ニコラス・ヴィッセンが苗木の輸送を勧告しました。苗木を運んだのは、インドのマハバールの司令官アドリアン・フォン・オメン。マハバールのカナヌール港からジャワ港まで運んでます。その苗木は、バダビア(現ジャカルタ)近郊のカダワン農園に植えられたと伝わっています。それが、オランダ領東インド諸島でのコーヒー栽培の始まりです。
 しかし、残念ながら何回も地震と洪水に襲われてしまし、カダワン農園は壊滅してしまいます。ところが、その3年後の1699年に全く同じルートでトライした人がいました。名前は、ヘンリクス・ザルデクローンで後のジャワ総督です。
 そして、1711年に念願かなって商業ベースでの最初のコーヒーの荷物が、ジャワからアムステルダムへ到着しました。オランダという国は、当時のコーヒー栽培の伝播に関しては本当に主導的な役割を演じています。

 

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