みんなが手話で話した島

 定休日の月曜日、愛知県美術館で開催中の『展覧会 岡本太郎』を観るため、久しぶりJRに乗りました。その往復の時間、電車に揺られながら読んだのが、『みんなが手話で話した島』(著:ノーラ・エレン・グロース、訳:佐野 正信)です。

この本は単行本として1991年に刊行されましたが、昨年の10月に約30年ぶりに文庫版として再刊されました。「最近、聾者やその家族を題材にした映画やドラマが続いたからかな?」などと、邪推も入り混じりながらも手に取ったのです。文化医療人類学者である著者グロースがアメリカ・ボストンの南に位置するマーサズ・ヴィンヤード島に赴き、島民みんなが手話を使ってくらしていた時代を知る多数の情報提供者の証言を丹念に採集し、過去の科学的研究資料と面接によって集めた口述歴史とを照らし合わせながら、島の社会文化の来歴を解き明かし、当時の生活やコミュニティを活写した内容です。

前半部分では、18世紀の初期からイギリスのケント地方をルーツとする移民が集団で暮らすようになった歴史的経緯や、当時の交通手段では特に冬期は定期船の運行が途絶えて孤立する環境条件と相まって、19世紀を通じて島には潜性遺伝である先天性の聾者が多く生まれました背景などをフィールドワークによって探ります。そして、比較的少人数の隔離社会であった島では、劣勢遺伝の聴覚障害者を 155人に一人の割合で生み出した(村によっては 25人に一人。一方、同時期の北米全体では5728人に一人)、特殊な環境が浮き彫りになります。

しかし、この島の生活では聾者を排除したり、逆に保護したりするよりも共同体の有益な構成員として社会的、経済的に自立しており、耳の聞こえない人も聞こえる人と同じように育ち、社交し、結婚し、生計を立て、政治に参加しました。驚くべきことは、健聴者も含む島西部の集落の住民全員が島独自の手話を操り、聾者が何不自由なく生活できる環境が形成されたのです。

本書では1900年代前半までの島の様子を綴っていますが、この期間、世界中のほとんどの国では聾者は迫害と貧困のうちに一生を終えることが多かったのです。しかし、一方でこの島の聾者は何のハンディキャップもなく社会生活を送っていたということが、情報提供者へのインタビューの会話などで分かります。

「私は聾のことなど気にしていませんでした。声の違う人のことを気にしないのと同じです。」、「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ、聾というだけでした。」や、「アイゼイアとデイヴィッドについて何か共通することを覚えていますか?」、「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」、「ひょっとして、二人とも耳がきこえなかったのではありませんか?」、「そうそう、いわれてみればその通りでした。お二人とも耳が遠かったのです」などです。

 後半では現実社会と対峙し、「近年、・・聾の子供を公立の普通校に入れて健聴の子供と交流させるメインストリーミングと呼ばれる試みである。聾者と一緒に活動してる人や聾問題に取組む専門家は、この取り組みに一様に熱い眼差しを向けている。しかし、メインストリーミングの対象は子供だけである。成人で構成される共同体は、ヨーロッパでもアメリカでも、その大部分が個別のアイデンティティを維持し続けている。こうした社会的言語的孤立は、下位聾文化を生み出すことで全体の釣り合いをとっている。・・・聾者や聾について知っているつもりになっていることの多くは私たちの特殊な歴史に根ざしているものであり、決して確定しているわけではないのだ。社会がこのことを認識すれば、私たちは一層完全な平等に向けて新たな一歩を踏み出すことができるだろう。」と刊行当時(1991年)に綴っているが、30年が経過した日本では、何一つ変わってはいないように思えます。

 障がいの有無に関わらず、すべての人がその人らしく活き活きと、命を輝かせて生活できる「インクルーシブな社会」を目指す人たちもいるが、「障害」「言語」そして「共生社会」とは何かについて深く考えさせるだけで、解決策を見い出せないでいる私です。 

 ふと、岡本太郎の言葉を思い出しました。「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。」、解決策が見いだせなくても、「まずはやってみる。」から始めますか。