インクルーシブ

9月9日、国連の委員会が「障害者権利条約」基づく日本政府の取組状況を初めて審査し、障害者の強制入院や、分離された特別な教育をやめるよう要請する内容などが盛り込まれた勧告を出したニュースを見ました。国連から日本政府への勧告はこれまで山ほどあるのですが、障害のある子とない子がともに学ぶ「インクルーシブ教育」の確立という内容が気になったのです。

ちょうど昨夜の手話サークルでは、学習会の内容が、ろうあ学校から普通学校に転入した経験を話す読み取り通訳を勉強していたこともあり、ろうあ学校のみの人の例や、普通学校からろうあ学校へ転入した例、普通学校のみで過ごした経験の人の話題も出ました。そうした事例を聞きながら、国連が勧告した「障害のある子とない子がともに学ぶインクルーシブ教育の確立」に対して、私は全て受け入れられない気持ちになったりしているのです。

ここ数年でしばしば聞くことになった、“インクルーシブ”とか“インクルージョン”という言葉。今一つ腹に収まらない状態が続いています。日本語にすると「包み込むような/包摂的な」となりますが、なんだか良く分からない言葉です。「ソーシャル・インクルージョン」(社会的包摂)という言葉から来ており、「あらゆる人が孤立したり、排除されたりしないよう援護し、社会の構成員として包み、支え合う」という社会政策の理念を表します。

その理念の意味は理解できるものの、“インクルーシブ”が馴染まないのは、これまで日本では、歴史的に障害のある子どもは別の場で別の教育を受けることを前提とした教育システムだったからです。障害があると分かった時点で別の学校、別の教室で教育を受けるということであり、そうした教育システムの中で、親たち(大人たち)は障害があったら別の場に行くことが良いのだと思ってきたのです。そして、分離教育の中では、障害種別ごとの指導方法が発展してきたのは事実ですが、同時に、教育を終えた後も社会参加がスムーズに出来ていないという課題もあったりします。

国連が勧告を出した基になったものは、200612月に国連で採択された障害者権利条約です。その第24条には、誰でも「生涯にわたって」、「地域社会のなかで」インクルーシブ教育を受ける権利が明記されています。ということは、変わらなければいけないのは、学校だけではなく社会全体が障害のある人とない人が分け隔てず、共に学び生活が出来る機会が保障されることです。

「差別はダメ」という教育をしながら、一方では障害を理由として別々の場で教育を受けることを当たり前とする教育現場や、障害のある子どもがいることが前提となっていない学校施設の状態は、暗に「障害を理由に排除されても仕方ない」というメッセージに取られて仕方がないように思えてきます。また、最近よく聞く「マウント」という言葉は、自分の優位性を誇示する意味だそうですが、テレビを観ていると頻繁に使われており、無意識のうちに差別に対する意識を薄れさせられるようで不安な気持ちになります。

これまで障害種別ごとに専門性をもった教育スキルを、障害のある子とない子がともに学ぶための教育スキルに変えていくには相当な時間が必要であろうし、社会の構成員として包み、支え合うためには社会全体の意識を変えなければなりません。そして、今の私は、少しだけですが障害を持つ方との交流があるものの、何をどのように変えられるのか分からないのが実情です。

ところで、コーヒーを通して、障がいの有無に関わらず、すべての人がその人らしく活き活きと、命を輝かせて生活できる「インクルーシブな社会」となることを願って企画された、「第2回チャレンジ・コーヒー・バリスタ」が10月13日に開催されます。障がいを持った人達が、コーヒーで生きがいのある仕事に付けるようになること、企業のオフィス コーヒーを全自動コーヒーマシンの変わりに障がい者が淹れる。街のコーヒーショップで、自信を持って生き生きと彼らが働く。こんな光景が当たり前になる社会を目指して始まったイベントです。 

コーヒーで世界が変わるのか、コーヒーを通してインクルーシブな社会が出来るのか、何もしない私が、何かはじめようとする人達を見てみたいと思います。