10年経過

 「315日、私の勤務する病院でも災害対策支援医療チームが発足されました。」、3月11日が近付くと必ず読むブログの最初の文章です。それは、震災に伴う災害対策支援医療チームの一員として参加した、東京の救命センターで働く看護師の方の記録です。彼女が3月16日から23日まで陸前高田で体験し感じた生の声を、電波の繋がらない携帯に毎晩記録し、後日まとめて掲載されたものです。

 次女が青森県の大学在学中に震災を経験し、その後一週間連絡が取れないため、随分と心配した私にとっても、東日本大震災の記憶を風化させないためのルーティンになっています。この時期になると様々なメディアで東日本大震災を取り上げますが、コロナ禍の現状では自分の現在の生活が優先され、遠いどこかの話題のように捉えているよう人が多いような気がしないでもありません。「10年経過」といった時間の経過と、何も変わらない原発の光景に違和感を覚えます。

 今日は、手話サークル竹の子の例会の日です。偶然にも私が初級の講師を担当することになっていたので、学習会資料の他に宮城教育大学特別支援教育総合研究センターのレポート「東日本大震災で被災した聴覚障害者における問題状況~情報アクセスの視点から~」を印刷して参加者へ配布することにしました。

 このレポートには、東日本大震災で被災した聴覚障害者が発災直後から復旧期までの時期に直面した問題状況を情報アクセスの観点から検討しており、震災で直面した問題状況は、自然災害による直接的な被害だけでなく、平時の情報アクセスに関する制度と体制の不備にも起因していることを示しています。

NHKの調査(NHK福祉ネットワーク、2011) では、沿岸部における聴覚障害者の死亡率が住民全体の死亡率の2 倍以上であるとしています。住民全体を上回る死亡率の高さは、津波情報や避難指示等の音声情報が本人に届いていなかったことに起因するものが多く挙げられています。 

また、「岩手、宮城、福島県によると、身体障害者手帳を持つ聴覚障害者は3県で計約19000人。全日本ろうあ連盟などによると、宮城県内には43日現在少なくとも19避難所に31人の聴覚障害者が避難生活を送っているが、同県内の約60 人の手話通訳士も被災した人が多く、活動できるのはわずか5人ほどという(読売新聞)」といった聴覚障害者に関わる資料を見ながら、手話に関わるものとしての3.11を考えてみます。