珈琲屋の人々~どん底の女神~

 新型コロナウイルス感染拡大によって来店客数が減る中、コーヒー豆を焙煎する合間にAmazonから届いた本を読んでいます。タイトルは「珈琲屋の人々~どん底の女神~」(著:池永陽)で、「珈琲屋の人々」の4作目となるものです。出版社である双葉文庫の紹介文によれば、「避けがたい理由で人を殺してしまった喫茶店『珈琲屋』の主人・行介と、かつて行介の恋人だった冬子。ふたりの恋の行方を軸に、『珈琲屋』のある商店街に暮らす人々の苦しみや喜びを描いて人気を集めるシリーズ最新作。まさに〝人間ドラマ〟と呼べる7つの物語がつながる連作短編集。」とあるように、・ひとり、・女子高生の顔、・どん底の女神、・甘える男、・妻の報復、・最終家族、・ふたり、という7編が綴られています。

 「ひとり」に登場するホームレスの米倉と仲間の犬であるイルが別れる話から、最後の「ふたり」に繋がるであろうことが容易に想像できてしまうところはご愛嬌として、島木や冬子とともに『珈琲屋』に訪れる訳ありの登場人物が、時代を反映するようなストーリーとなっており、2009年1月に始まった「珈琲屋の人々」がシリーズ4作目となった時間の経過が見て取れます。

 同じ珈琲屋ではありますが、行介のような人を殺めた過去もなく、過去を忘れまいとアルコールランプの火で右手を焼くこともない。還暦を過ぎた私の手にはケロイドではなくて加齢によるシミが増えるばかりです。ましてや、カウンターに座る客にはプレイボーイの島木も美人の冬子も訪れず、「たまには若い子でも来ないかな」と、小窓のついた入口ドアを覗く日々です。

 時々、始めてコーヒー豆を購入される方や、カウンターに座る馴染みの方に試飲にコーヒーを出しますが、「一杯目は心を和らげ、二杯目は体を和らげる。だから、二杯目は砂糖とミルクをたっぷり入れて。これは常連さんへのうちのサービスですから。」などと気の利いた言葉などの愛嬌もなく、ミルクではなく植物油脂のコーヒーフレッシュしか出さない店なのです。

 しかし、まったく類似点がないかといえばそうでもなく、「はやってないから、人に聞かれたくない話をするには最適か・・まさにその通りだから、何の文句もいえないな。」と行介が言うように、はやっていないから「まめ蔵は俺の隠れ家や!」とお客様が話しているくらいですから、両方とも儲からない店ではあります。 

 今回、4作目で行介と冬子との関係が進展するのかと期待していましたが、相変わらずの関係性は変わりありません。ただ、冬子がパパ活をする女子高生の理菜に言った言葉、「どんなことでも何かを得るってことは、何かを失うことなの。特に常識外の方法で何かを得たときは、これも常識外の大きな何かを失うことになるはず。私はそう思う。」という思いと、行介が夫への復讐のため浮気をする玲子に言った言葉、「何かを得るこということは、何かを失うことでもあるんですよ。逆に、何かを失うことは何かを得ることでもあるんです。」と繋がるところに、変わらぬ二人の結び付きを感じます。次回作が楽しみです。