彼岸に美術館へ

 彼岸となった朝、自宅の庭に彼岸花が咲き始めました。まったく、彼岸花とよく言ったものです。そして、あらかじめお墓の掃除をしてくれた妻を残し、一人で墓参りに向かいます。妻は寛解となっていた病が再び悪さをしたため、自宅療養中の身とあって、細かく指示を出してくれます。今は、その指示に素直に従うばかりという訳です。しかし、気持ちのよい朝に、一人お墓参りに行くのも悪くはない。肌に当たる空気が清々しい。 

 午後からは岐阜県現代陶芸美術館へ行き、開催中の「神業ニッポン 明治のやきもの 幻の横浜焼・東京焼」(9月5日~11月3日)を見ます。明治時代に作られた、華やかで精緻を極めたモチーフによって装飾された輸出陶磁器「横浜焼・東京焼」を幻というらしい。これまで地元美濃焼の街で見てきた「西浦焼」や「根本焼」も幻といわれてきたけれど、「横浜焼・東京焼」とはいかがなものか確かめるべく館内を歩きます。 

 神業ともいうべき超絶技巧を凝らし、外国の人々の好みを反映して製作されたというだけあって、日本人受けしないデザインながら、職人技が光る作品、いや、商品が並んでいる。商品と表現したのは、明治政府の殖産興業政策を機に、生糸貿易や日本の伝統工芸品の輸出が盛んに行われるようになったことから、伝統工芸品である日本の焼き物は欧米諸国で非常に高い評価を受け、貿易の中心地であった横浜に生産の拠点を移したことがうかがえた。 

 けれども、「横浜焼・東京焼」というよりも、そこに並んでいるのは九谷、京都、有田、瀬戸といった日本各地の職人技の商品であり、「横浜・東京の絵付職人展」といった感想を持ちました。廃藩置県により藩窯として製作しできなくなった職人達が職を求めて横浜に移す者もいたというから、素地も各地よりとりよせたという。何だか輸出用商品の生産基地という印象です。 

 そもそも、「神業ニッポン」ってのもテレビのタイトルみたいで、「横浜焼」や「東京焼」という言葉ありきで構成されているかのように思えてきました。現在、横浜焼として運営しているのは数少なく、個人で活動している数はわかっていないというが、一時期は数百名もの横浜焼に携わる人が居たと言われているならば、そうした人から過去を追いかけるルポルタージュが見てみたいものです。 

 彼岸の時期しか咲き誇らない彼岸花のように、美術館での企画展でしか花咲かせることのない「横浜焼・東京焼」よりも、いまに生きる「横浜焼・東京焼」を見つけることも意味のあることだと思ってみたりします。