根本焼

 先月、仮オープンした多治見西浦記念館を訪れた際、説明をしていただいた方から、「多治見美濃焼ミュージアムで根本焼の展示もしとるで、これも見に行って!」と言われたこともあり、8月10日の最高気温日本一となった38.6℃の多治見市へ向かいます。 

 実は、この企画展「代官 坂崎源兵衛と根本焼」を見るまで、「根本焼」の存在も知りませんでした。衰退してしまって現在に残っていないこともあって、西浦焼とともに幻の焼物なってしまった「根本焼」について、今回の企画展では、幕末から昭和にかけて多治見市根本町で生産された「根本焼」と、その開窯を後押しした代官坂﨑源兵衛のドラマにフォーカスして展示されています。 

 そもそも、「根本焼」は幕末に瀬戸で磁器生産の技術を習得した小助が商品化に成功し、礎を築いた染付磁器です。当時、旗本林丹波守が支配してい地域に代官所を置き、任されていた代官坂崎源兵衛は、飢饉や災害に苦しむ当時の村を立て直そうと、ため池を整備したほか、小助の開窯を新規取立の窯(御用窯)として許可したのです。 

 ところが、根本焼開窯をはじめとする産業開発には多額の資金を調達するため、税の取り立てや取り締まりを厳しくして領民の反発を招き、代官坂崎源兵衛は殺害され変死体となって発見されることになります。なんと哀れなことでしょう。 

 「根本焼」の特徴は、高価な呉須を用い絵付けを施しており、色に柔らかみがあり、料理を引き立てることから冠婚葬祭や年中行事でもてなしの器として人気を集め、明治中期から大正時代にかけて最盛期を迎えたそうです。ちなみに、呉須とは酸化コバルトを主成分とした鉄・マンガンを含む鉱石のことで、陶磁器の染付に使われる呉須はこの鉱石を粉末にしたものです。中国の呉須鉱石の産地名から、日本では“呉須”と呼ばれるようになりました。 

 明治20年代から大正10年頃まで発展、最盛期を迎えるものの、第一次世界大戦後の不況期に入り、徐々に勢いを失っていきます。製陶業から一時盛んとなった養蚕にものなど多くが農業に戻って職人が減って、根本焼の窯も一基のみとなり、太平洋戦争後の昭和30年頃には歴史に幕を下ろしました。 

 小助が作ったとされ、坂﨑家の神棚に供えられていたとっくりをはじめ、根本焼の茶わんや皿、陶片約75点を時代ごとに紹介している「根本焼」を見ながらタイムスリップし、少しだけ暑さを忘れる時間を持ったのでした。(単に冷房の効いたところに居ただけか)