久々の手話通訳

 昨夜は、土岐市肥田町の青少年育成会大集会へ、手話サークル竹の子メンバーとともに手話通訳者として参加してきました。本来ならば幾つかの場面で通訳を担当するところでしたが、なにせ、病み上がりということで、作文通訳のみで免除となり多少気が楽でした。

  市内の各町で同様のイベントが行われますが、今回は夜に開催されたこともあって、久々の手話通訳の出番となります。また、手話通訳が付く会場が数少ないという現実もあり、私にとっては、お店に来店される聴覚障害者との気楽な会話しか手話を使用していないため、多くの方々に見られる場所での通訳は貴重な時間でもあります。

 こうした会場での手話通訳は、手話をテレビ画面の片隅に映るだけの遠い存在ではなく、身近なものとして感じていただくことと、通訳者にとって多くを学ぶ場所となるため、有意義な活動です。ただ、こうしたイベントでの手話通訳が必要であるのですが、それ以上に、日常生活の中には手話通訳が必要な場面が多く存在します。

 ただ、その必要性が表面化しないという側面もあって、「テレビには字幕がある」、「筆談で通じる」、「家族がいる」、「特に困った様子が無い」といった誤解を生むことが多々あるのも現実です。

 しかし、「すべてのテレビ画面に字幕がつかないし、字幕のある日本映画はほんの僅かです」、「筆談で通じるのではなく、通じた感じであって、健聴者のような文書の理解力はかなり個人差があります」、「家族が全ての時間一緒にいるわけではないし、聴覚障害の理解者とは限らない」、そして、「特に困った素振りをあえて見せない」ってのもあります。実際に理解できなかったことや、困ったことがあっても、何もなかったように「やり過ごす」知恵で、社会の中に溶け込もうとした人々もいたのです。

 そんな事を感じながら、久々の手話通訳を行ったのでした。