コーヒーカップから目線を外し

 先日訪れた「神戸市立海外移住と文化の交流センター」は、1928年に「国立移民収容所」として開設され、時代の流れに応じて、神戸移住教養所、外務省神戸移住斡旋所、神戸移住センターと名称を変えていきました。そして、1941年、太平洋戦争のために閉鎖された後、195210月に外務省の神戸移住斡旋所として業務を再開します。

 戦後の南米移住は、1950年代後半から1960年代初頭にかけて最盛期を迎え、ブラジルのコチア産業組合の受け入れによる「コチア青年」や技術者向けの「工業移住」もおこなわれます。196410月には外務省から海外移住事業団に移管され、名称も神戸移住センターに変更されました。さらに、日本の高度経済成長にともない海外移住は下火となり、19715月に神戸を出航した日本最後の移民船「ぶらじる丸」を見送って、神戸移住センターは閉鎖されるのです。

 そんな「神戸市立海外移住と文化の交流センター」へ行ったことを妻に話していたら、「私、3歳頃にブラジルへ家族で移住した人を知ってる。」と教えてくれました。県外に住んでいた家族はブラジル移民として渡りましたが、農業に従事するも生活は想像以上に大変で、子供の教育のこともあって3年後に帰国されたそうです。なんとも偶然というか、タイミングのよい話題です。ってか、何で?

 幼いながら、レンガを運んで家を建てたそうなので、愛知県犬山市にある「明治村」のブラジル移民住宅を想像してみましたが、それは、1919年(大正8年)にブラジル・サンパウロ州レジストロ市で、日本人移民が慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら、密林を拓いて造った家の一つであるため、年代的に離れていることから違う感じなのでしょう。

 第二次世界大戦によって閉ざされた移民政策は、1951年にブラジルとの国交が回復し、1953年から移民政策が再開されます。日本政府は新たな移民に様々な支援策を行いブラジルへの移民数が増加し、1959年に移民は年間7000人を超えます。なお、戦後の移民には政府による支援だけではなく、先ほどのコチア産業組合など受け皿が用意され、戦前に比べ恵まれた環境となり、様々な職種における「技術移民」の割合も多くなったようです。

 そんな背景もあってか、戦後の移民は「新移民」と呼ばれ、農業労働者や単純労働者を中心とした「旧移民」と区別されます。さらに、この時点で多くの日系人は大学を卒業し、ブラジル社会で大きな成功を収めるのですが、あくまでも一握りの人たちであって、日本に帰る人たちが多かったことも忘れてはいけないこと知ります。

 コーヒーに関わったことで、自分の知らない世界を知るきっかけが多くなりました。コーヒーカップから目線を外し、また明治村へ行ってみようかな。