太田宿散歩

 妻が宝くじを買った事を知り、妙な対抗心が湧きあがって、「宝くじなら美濃加茂の平田たばこ店だろう!」と美濃加茂市までやってきました。せっかくなので、ゆっくり歩いたことのなかった太田宿を散歩することにします。
 大田宿は伏見宿から、さらに鵜沼宿へ続く、中山道の中で江戸日本橋から数えて51番目の宿場です。伏見宿から向かう途中の太田橋のたもとには「今渡の渡し場跡」という石碑が立っており、「東へ江戸」「西へ京」と刻まれており、木曽川を渡る渡し場があったことが分ります。急流で川底も深い太田の渡しは、祐泉寺近くだったり、太田橋近くだったりと時代によって移ったようで、この今渡の渡しは江戸時代中期から昭和初めに太田橋がかかるまで利用されていました。
 太田橋を渡って木曽川の土手の上を歩きながら、飛騨へ向かう「飛騨街道」、関や郡上へ向かう「関街道」への分岐点でもあり、また木曽川が並行して流れているので交通・物流の要衝として機能していた場所を想像してみます。でも、思い出されるのは、若い頃にカヌーでこの近辺を川鵜を見ながら遊んでいたことぐらいです。そして、途中で右に曲がって宿場の入口を感じさせる、米問屋小島屋まで出てきました。
 この店の信号手前を左に入ると中山道の宿場らしい町並みが見えてきます。店の前にある大きな水車を見ながらしばらく進むと、道路形状が折れ曲がっており、“桝形”と呼ばれている外敵の侵入を少しでも阻む構造で、何だか城にも似ています。その横にあるのが祐泉寺です。文明6年(1474年)に大道真源が湧泉庵という寺を建立したことに始まるといわれている、臨済宗妙心守派の歴史あるお寺のようです。
 その先にあるのが、小松屋の屋号で営まれた太田宿の旅籠です。現在は、お休み所として一般開放されており、講談や音楽などのイベントなどでも使われているとのこと。入ると全て開けっ放しになっているので外気と同じ冷たい空気が漂いますが、かえって江戸時代にタイムスリップしたかのような気分になります。
 このあたりに来ると、古くからある建物が多く、呉服店だった永楽屋、脇本陣と呼ばれる本陣に次いで江戸時代の宿駅制度上の半公共的な宿泊機関、酒蔵店の御代桜、旧太田宿本陣門、太田宿中山道会館へと歩きました。脇本陣は1769年(明治6年)に建てられた母屋が現存しており、現在も住居として利用されている国指定重要文化財です。ちなみに、板垣退助はここに宿泊した翌日に岐阜市で暗殺されているようです。
 月曜日のため、江戸時代の太田宿の街並みを再現した展示室のある、太田宿中山道会館は入ることができませんでしたが、ほとんど人も歩かない午前9時前に太田宿散歩を終えました。さて、その後購入した宝くじ(プチ)で、年末まで夢を膨らましておくとしましょうか。