美濃のカップ&ソーサー

 昨日から、多治見市虎渓山町にある「とうしん美濃陶芸美術館」で、『喫茶文化美濃 カップ&ソーサーの歴史』という企画展が始まりました。多くの美術館がそうであるように、休館日が月曜日なので直ぐに見に行くことが出来ません。7月1日(日)までの期間中の月曜祝日を利用し、なんとか見に行きたいと思っています。
 そんな好奇心を駆り立てられたのも、明治・大正時代に作られ欧米に輸出された椀皿から、昭和の終戦後、高度成長期から現在まで、国内向けとして作られた美濃焼の椀皿が展示され、特に明治・大正期に作られた素晴らしい意匠や製造技術に興味を持ったからです。
 しばらくの間は美術館へ行くことが出来ないので、パンフレットを眺めながら綺麗なカップ&ソーサーを眺めていると、聞いたことななかった作者やブランド名があります。「西浦焼」、「加藤重輔」、「春田春山」、「大洋商工会社」といった名前が登場し、気になって調べてみることにしました。

「西浦焼」
 江戸時代後期から代々多治見村の庄屋を勤める西浦家は初代圓治から5代まで圓治を襲名し、文政11年(1824)より陶器仲買人を始めます。幕末、2代圓治が美濃焼物取締所初代取締役を勤め、明治時代に入り3代から5代圓治が美濃焼の貿易・販売会社や製造会社を設立し、陶磁器製造、欧米諸国への輸出を行い、美濃焼の品質向上及び販路拡大を推進しました。この3代から5代までが明治時代に製造した陶磁器を「西浦焼」というそうです。
「加藤重輔」
 西浦焼が作られていた多治見市の市之倉で、染付職人として活躍していた人のようです。染付とは白地の素地にコバルト顔料(呉須絵具)による絵付けを施し、その上に釉薬をかけて焼成したものです。

「春田春山」
 現在の土岐市妻木町で生まれた春田春山は、多治見町平野で下絵職人をしていた頃に西浦焼の吹き絵に出会い、下絵吹付の研究を始めます。吹き絵とは、絵具を霧状に吹き付けて彩色する陶磁器の技法ですが、当時の吹き絵は一色を全面に吹き付けただけのものや、簡単な型を貼り付け吹き付けたものなど、単純な手法のものが多くて、技法としては軽視されていました。そんな中、春山が行った吹き絵は、富士山や鯉など日本画のように絵を描くもので、その方法が誰にも分からなかったといわれていました。

「大洋商工会社」
 西浦焼を世界に売り込むために作られた会社のようです。ニューヨークなどに店を構えるなど、名古屋でも有力な貿易会社として発展しました。現在も名古屋市東区代官町の名古屋陶磁器センター隣に、レトロな5階建の太洋商工ビルとして残されています。

 こうした素晴らしい焼き物を世に出したのが、西浦焼の名前ににもなっている5代西浦圓治でした。明治5年(1872)に窯株・仲買株制度が廃止となって生産・販売が自由化されます。多治見は美濃焼の集散地として活気にあふれますが、当時の美濃焼は日用雑器がほとんどで、粗製乱造との汚名がつくような品物が多かったようです。そんな中、美濃焼の質の向上に努め、国内外の販売に尽力したのが陶器商の5代西浦圓治だったのです。

 この5代西浦圓治は、岐阜県立多治見工業高校の前身となる「岐阜県陶磁器講習所」を開校するなど、将来の美濃焼の発展を見据え、後継者の育成に力を注いだ人であり、そのあたりを多治見工業高校の卒業生に聞いてみると、「何?・・・俺に聞くなよ。」と言われるしまつです。

 その後、何名かの製陶業の方に西浦焼について聞いてみると、「昔は素晴らしく、世界に通用する焼き物を焼いていたんだ。けれど、大量生産ばかりやって、そうした職人技がなくなってしまった。」と言う方や、特にコメントをされない大量生産している会社の方、そもそも西浦焼すら知らない方など、反応は様々でした。

 陶磁器生産日本一といわれる美濃焼の産地に暮らす自分にも、まだまだ知らないことが多いと知りました。業界とは異なる仕事をしていたものの、少しは地元の事を知ったうえで、今回の企画展を見てみようと思います。入場料が無料ですから。