五平餅

 昨日は手話サークル竹の子の花見会でしたが、残念ながら葉桜の下での開催となったようです。毎回残った手作り五平餅の差し入れを楽しみにしていましたが、今回は好評だったようで「無くなっちゃった。」といって、帰りに店へ立ち寄ってくれました。
 この五平餅とは、島崎藤村の『夜明け前』にも登場し、「おまんは隣家の子息にお民を引き合わせて、串差しにした御幣餅をその膳に載せてすすめた。こんがりと狐色に焼けた胡桃醤油のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。」とあるように、「御幣餅」と表記されています。
 五平餅の由来は島崎藤村が書いたように、神主が神事の際に左右にお払いする、あの白い紙の付いた棒のような物の御幣の形態から名が付いた説と、五平あるいは五兵衛という人物(樵であったり猟師であったり、また大工とするものもある)が飯を潰して味噌をつけて焼いて食べたのが始まりとする説があるようです。いずれにせよ、江戸時代中期頃に木曽・伊那地方の山に暮らす人々によって作られていたものが起源というのが濃厚で、米が貴重であった時代、ハレの日の食べ物として祭りや祝いの場で捧げられ、食べられていたようです。
 今では木曽・伊那地方のみならず、岐阜、三河の辺りに広く伝わって、子供の頃からの郷土料理となって親しみ、ドライブインや道の駅、峠の茶屋、高速道路のサービスエリア、スーパーのフードコート内ファストフード店でも、お好み焼きやみたらし団子、大判焼きなどとともに販売されています。豊田市においては、「豊田五平餅学会」なるものまで設立され、まちおこしに利用されてる所もあるようです。
 そんな訳で、食べられなかったことで無性に食べたくなり、道の駅へ立ち寄って五平餅を食べることにすると、偶然にも2種類の形の五平餅を販売しています。東濃地方では、五平餅の形は大きく「団子型」と「わらじ型」に分かれており、「団子型」が多くみられる地域は、中津川市を中心とした蛭川から落合、福岡、坂下、川上ときて、北は付知まで。一方の「わらじ型」は、恵那市に多くみられまれ、岩村、山岡、明智、串原、上矢作といったところはわらじ型が基本です。

 今回は贅沢にも2種類の五平餅を同時に食べることができましが、タレが思ったほど美味しくありません。サークルの仲間が作った美味しいタレの印象が強く、「五平餅を食べたぞ!」っていう満足感がないのです。仕方がないので、次回に行われる夏のバーベキューを期待して、しばらく待つことにしましょうか。