リオのコーヒー

 あと1ヶ月程で開幕するリオ・オリンピックですが、リオといえばリオのカーニバルが有名ですね。それと意外に知られていないのが、ブラジルにおけるコーヒー産業の出発点ともいえる場所でもあります。

 ブラジルでのコーヒー栽培は仏領ギアナから輸出厳禁のコーヒーの種と苗をフランシスコ・デ・メロ・パリェッタ(遠征隊長)が持ち出して1727年にパラーに植え、そしてマラニオンからリオへ1760年に伝わりました。しかし、当時コーヒーに関心を抱く者は少なく18世紀末までは徐々に広まっていく程度でした。なぜなら、砂糖、タバコ、ココア、藍などの伝統作物と競合していたからです。
 ところが、1808年にポルトガル王室と数多くの貴族や商人がリオ・デ・ジャネイロに亡命すると、その資本をもとに19世紀前半からリオ・デ・ジャネイロ州内での生産が本格化します。中でも、地理的に好条件のパライーバ川流域で1830年頃から発展し、1840年には、アメリカでの消費拡大によりコーヒーがブラジル第1の輸出品となったのです。けれど、土地の疲弊によってパライーバ川流域でのコーヒー生産は1870年頃から衰退し、コーヒー産業の中心は広大な土地を有するサンパウロ州、ミナスジェライス州など北部に移っています。州別のコーヒー生産量を見ても、現在は面影もありません。

 同時に、このコーヒー産業拡大の時期には、アフリカ大陸から送りこまれた奴隷を農業労働者として重用していたが歴史があります。1888年に奴隷制度が廃止されましたが、その後の農業労働者不足を補うために、ヨーロッパ諸国からの移民を受け入れました。けれど、イタリア人移民が奴隷のような待遇の悪さに反乱をおこし、移民を中止したために再び農業労働者が不足となります。そのため、ブラジル政府は1892年に日本人移民の受入れを表明し、1908年(明治41年)東洋汽船の「笠戸丸」でサンパウロ州のサントス港へと向かったのです。

 日本人移民の苦労は何度かドラマにもなっているとおり、移民の殆どは数年間契約労働者としてお金を貯めて帰国するつもりでした。しかし、一部の農場を除きその実情は奴隷と大差ないものであり、あまりの待遇の悪さからストライキや夜逃げも多く発生し、近隣の州やアルゼンチンへと渡る者もあらわれました。1909年に外務省が調査した結果では、笠戸丸で移民し当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったそうです。

 平和の祭典であるオリンピックですが、開催されるリオの過去を知ることで、本当の平和につながることを願いたいものです、けれど、実際の歴史は過ちを何度も繰り返してるように思えるのは私だけでしょうか。